自分の人生は、「自分で選ぶ」か
「他人が選ぶ」かのどちらかで決まるのだと思います。
でも、究極的には、
そういったところも含めて、
自分で選んでいるんだと思います。
自分で決めて進むも選択、
他人が決めるがままに進むも選択。
保留するもまた選択。
選択肢だけ他に求めて、自分が判断するも選択、
選択肢から自分で決めて、判断するも選択。
判断を他にゆだねるも選択。
結果が、たとえ満足のいくものであろうと、
不満なものであろうと、それも自分で選んだ結果。
つまりは、そういうものだと思って、
僕は生きています。
そういうことを心に、なるべく主体性を持って、
生きて行きたいと思っています。
でも、人は他の力なしに、
生きていくことはできません。
それがつまり、「相談・協力」なのだと思います。
その際には、
自分で何を決めて、他に何を求めるのか、
そのラインを明快にした上でするのが、
非常に大事だと思います。
自分で下した決定に対しての助けがほしいのか、
用意した選択肢について、決定を求めているのか、
選択肢を用意してほしいのか、
そのラインが明快であると、他の力は得やすいです。
そして、そのラインが曖昧だと、
えてして「愚痴や甘え」になりがちです。
「愚痴や甘え」が、
悪いこととはまったく思いません。
むしろ、きわめて重要なことだと思っています。
ただしそれが許され、成り立つのは、
双方の合意があって初めてです。
それがなければ、どちらかが、
またはお互いに不幸になります。
「愚痴や甘え」が許される関係、というのは
かけがえのないすばらしいものですが、
それは得難い、難しいことだと思います。
そして最近、そういうことで食い違い、
少し悲しいことがありました。
安易に求めたり、受け入れたりすると、
つらい思いをするなぁ、と。
そのことは、ベクトルが違いすぎて、
伝えた内容の意味すら、おそらく
正しく伝わっていないだろうとおもいますし、
私に求められても、結果的に
お互いに不幸になるであろう範囲については、
はっきりと断ち切るような表現をしたので、
全面的に嫌われていてもおかしくはないですし、
正直、もうリカバーはないだろうと思っていますが、
それもまた、ひとつの結果として、
受け入れ、学習し、進むしかないのです。
人生は短いので、
迷って留まっている時間などない。のです。
で、
結局何が言いたいのか・・・というと、
特にオチはないのですが(^^;
そんなことを、最近、思っているのです。
冷たいでしょうか?どうですかね?
この世にはびこる生半可な慰めや励ましよりは、
よほどマシだと思いますが。
それとは別で、今日は通夜でした。
故人の好きだったものや、ゆかりの人々を中心に
みんなで故人を偲び、思い出を語りあう、
とても良いセレモニーになったと思います。
明日は、告別式。
今日よりも大変ですが、
故人と残されたみんなのために、
全力を尽くしたいと思います。
おわり。