自分の人生という名の演劇において、自分は主役になれているか

All the world’s a stage,
And all the men and women merely players.

シェイクスピアはそう言いました。

そして僕は、表題のようなことを、時々考えます。
また、どんな芝居の主役なんだろうか、と。

平凡な日常を描く随筆のような物語なのか、
波乱に満ちた大スペクタクルなのか、
はたして喜劇なのか、はたまた悲劇なのか。

決まりごとはとても少なくて、台本の最初のページで生まれて、最後のページで死ぬことのみ。
それ以外の筋書きは、人の数だけ、実にバリエーションに富んでいます。

でも時々、

「自分は自分の人生の主役ではないのではないか」

と、疑う瞬間も、あったりします。

それをよしとするなら、それでよし。
でも、そうでないなら、これほど悲しいことはありません。

他人の幸福を演出したエピソードも、自分を犠牲にして他のために働くことも、もちろん、他人の人生の、脇役としての名シーンではあります。

でも同時に、
自分の人生という芝居のハイライトになるかも?
または、必要ないエピソードかも?
と思うと、そのひとつひとつの精度を高めたり、そもそも、そのエピソードを選ぶかどうか? ということについて、より丁寧になるのではないかと思うのです。

木っ端な僕は、まだまだ名演を生み出すほど素晴らしい人生を送っているとは、とうてい言えませんが。
でも、上記のように、こころをなくしているときほど、ていねいに生きたい。

でも欲張りなので、他人の人生という舞台の名脇役になりたい、とも思ってしまいます。

そんなことを考えながら、今日も世はふけ、人生の第何章第何幕めかの、幕が降りる。

次のエピソードも、見ごたえ、演りごたえのある、良い話でありますように。

やる気の出るドリンク

「栄養ドリンクでやる気までは出ない」

それが、今日僕が学んだことです。皆様こんばんは。

この世にそんな都合のいいものはねぇよ、
って、そんな感じですよね。

今日はここから、やる気の有無と好き嫌い、社会性と独善性の善悪、ニーチェ以前と以後…などなどのテツガク的noteを展開しようと思ったのですが…

やる気が出ないので、ビールを飲んで寝ます。

おやすみなさい。

人にやさしく

人間、「自分だけは絶対にこの過ちを犯すまい」と思ったことにかぎって、ついやってしまったり。

みなさまこんばんは。僕です。

今日は、僕の中でそのなかのひとつ、「携帯を置き忘れる」をやってしまいました。ラーメン屋に。

幸いにして優しい店員さんが、ラーメンの中でひとり溺れている僕の携帯を救出し保管してくださっていたので、事なきを得ました。溺れてたのは嘘だけど。
新しいiPhoneは耐水性があるらしいけどラーメンでも大丈夫なのだろうか。

よく、日本では「他人に迷惑をかけないようにしなさい」と教えるのを、インドでは「あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、他人を許してあげなさい」と教えるといいますが(ホントかな?)僕もなるべく人にやさしくありたいと思いました。

ということで、恩返しと宣伝をかねて、その美味しいラーメン屋さんでの一枚をどうぞ。伊勢佐木町の銀家です。

どうだ、うまそうだろう。

ではまた次回。

世界がもし100人の俺だったら

とりあえずなんでも「俺」を入れてみる遊びが好き。
どうも僕です。

さて、noteで書き始めて1週間が経ちました。そんなに毎日がドラマチックなわけでもない僕の人生、1日1本以上書くのはなかなかに大変ですね。
毎日コラムやマンガを書いている作家さんを改めてマジリスペクト、親や仲間たちにはマジ感謝であります。

ネタがない時にネタを生み出すには。

いわゆる「発想法」というやつがありまして、広告業界の端くれにいた身として…今もいるといえばいるのですが、お世話になる機会がしばしばありました。

個人的にいちばんお手軽だと思うのが、「オズボーンのチェックリスト」というやつです。
ひとつのネタを、さまざまなかたちに展開して発想する手法ですな。

というわけで、

「世界がもし100人の村だったら」
※オズボーンのチェックリストによる変奏曲

というのが、今日のテーマです。

1. 転用 - ほかに使い道はないか

これはたとえば、

「世界がもし100人の村だったら」のたとえのどれかについて、その通りの人物100人に、実際に取材をしてドキュメンタリーを作り、1日1話ずつ公開していく。

とかが考えられるかな。これで100日分の原稿が生まれる。そして普通に読みたい気がする。

2. 応用 -他からアイデアを借りられないか

「100人の村」を、100つながりで変えたら面白そう。そういえば昔、「地球の誕生から今までを24時間にたとえたら」っていうのがありましたね。100人の村の24時間の移り変わりとかやったら楽しいかも。シロウトには専門的すぎて調べるのが大変ですが。

3. 変更 - 変えてみたらどうか

世界がもし、100人、野村だったら。

野村さん100人に取材して1日1話(ry

4. 拡大 - 大きくしてみたらどうか?

世界がもし100人の巨人の村だったら…じゃなくて(笑)、宇宙がもし100個の星だったらとか、あったら読みたい。

5. 縮小 - 小さくしてみたらどうか?

世界がもし100人の小人…もとい(笑)、さらにしぼって10人の村だったらとかだったら、面白いかもですね。

6. 代用 - 他のもので代用できないか?

他のテーマに変えてみたら面白いかも。世界の酒がもし100杯の酒だったら? みたいに世界の代表的な酒100杯を取り上げるとか、人生がもし100曲の歌だったら? とか。

7. 置換 - 入れ替えてみたらどうか?

世界から消えていった民族たちを100人にまとめたら? …とか、面白そう。

8. 逆転 - 逆にしたらどうか?

言葉の順番を逆にして、世界の村の100人を無作為に抽出してみたら? 世界ふれあい街歩き的な世界観が描けそうです。

9. 結合 - 組み合わせたらどうか?

世界が100人の村で俺以外全員可愛い女の子だったら? っていうラノベ。誰か書きそう。

てなわけで、

まあ僕は書きませんが、いつか誰かが使えそうなネタがあるかも? 思考実験、トレーニングとしては最適ですね。

以上、オズボーンのチェックリストを使って遊んでみる、でしたー。

また次回。

ビル・ベイリーよ、家に帰っておくれ

家に帰ってきました。どうも僕です。

邦訳の妙と申しますか、ある他言語を日本語に訳した際に、図らずも原語とは異なるニュアンスを含んでしまうケースがあります。

素晴らしい翻訳により魅力がより強まるケースもありますが、残念ながらそうでもないこともありまして、ひとつに、たとえばジャズ・スタンダードの”You’d Be So Nice To Come Home To”に対して大橋巨泉氏がつけた邦題『帰ってくれたら嬉しいわ』のような、誤訳であるケースがあります。
※実際は「あなたが待つ家に帰れたらなあ」という意味

一方で、訳としてまちがってはいないものの、日本語の取り方によって真逆の意味になってしまう例もあり、その顕著なものが、今日突然ふと思い出した、表題の『ビル・ベイリーよ、家に帰っておくれ』です。

賢明な読者の皆様におかれましてはお察しの通り、このビル・ベイリー氏、「帰れ帰れ、もういい加減帰っておくれよ」…と、いくら言っても帰らない意固地な男…ではございません。

こういう時にはきちんと原題にあたるのが大事です。調べてみると、

Bill Bailey, Won’t You Please Come Home

ということでございまして、正しくニュアンスを伝えるならば、きちんと”Come”の部分を強調して、

『ビル・ベイリーよ、家に帰って「来て」おくれ』

とするのが適切なわけであります。

つまり表題の訳は、いわば間違ってはいないが不適切、ということです。あれ、最近どこかで聞いた表現のような。

トップ画像のカーネルサンダースも、カーネルは名前ではなくて「大佐」という意味で、しかも従軍中に大佐だったわけでもなく、「ケンタッキー州の名誉称号」として与えられたものである…とか、カーネルパニックは「ケンタッキーおじさん大混乱」という意味ではない、とか、そういうわけであります。多分。

ちなみにケンタッキー州でカーネルの称号をもらった、いわゆるカーネルおじさんには日本人もいます。これ豆知識。

つまり僕がいいたいのは、原語にあたるのも素敵ですよ、ということです。
邦訳もいいのですが、とくに文学や詩、歌などは、音韻の美しさを感じ取ったり、その意味の真に迫るためには原語に触れてみるのが大事。

というわけで、聞いてみましょうビル・ベイリー。
エラ・フィッツジェラルドのバージョンでどうぞ。

歌詞はWikipediaに。

というわけでまた次回。

名文を生み出すということ

ひとつの名文を生み出す行為は、彫刻に似て、さあ書こうと思いついた瞬間から心の中に生まれ移りゆくよしなしごとのなかから、あらゆる余談や余計な表現、レトリック、装飾(虚飾ともいう)を削り取り削ぎ落とし、ノミを入れ、鉋を掛けて整えた末に、はじめて生まれる可能性のあるものであって、その境地に至るまでには長年に渡る苦行、研鑽、切磋琢磨、学びと模倣、守破離等々さまざまな経験を経る必要があるであると個人的に思いつつ、日々公私問わず多かれ少なかれ文章を生み出している僕は、到底その域にたどり着けない葛藤や悔しさ、また他人の名文や上手い表現への嫉妬など、常々苦しみを感じているのでありますが、個人的に名文の境地、宝庫であると僕が感じるのは「詩」で、その単語の取捨選択、1の言葉で1000の情景や心象を語り、時に世界を恣意的に切り取る、それぞれのことばの力や組み合わせの妙には舌を巻くというか、畏敬の念というか、自分自身がそれらを生み出すことができない悔しさというか、ヤラレタ! という感じというか、そういう複雑に入り混じったモヤモヤした感情を持たざるを得ず、シクシクと胃が痛むわけで、でも、であるからこそ、このnoteには自分なりに、前述のさまざまをぎゅっと濃縮した何かを溜めて溜めて溜めて溜めて、凝った(こごった)カタマリをゲロっと吐き出すかのように、毎日書き続けようと、そう考えておる次第でございますが、ちなみに今日は、そんな凝ったカタマリの一例として、ここまで読んだ賢明な皆様はお察しのように、とにかく一行で句点を設けずに、できる限り長く、かつなるべく話の流れが破綻しないように文章を続けて書くトレーニングを兼ねており、自分なりにはそれなりに書けているのではないかと自画自賛しているのですが、皆さんはどう感じるだろうか? と、せっかくここまで読んでお付き合いいただいたご縁もあるので、ぜひコメント欄にて何かひとこと、ご意見ご感想などを賜りつつ、よいと思ったならぜひとも「スキ!」もお願いしたく…って僕、こんなことを書くとなんだか自己承認欲求のカタマリというか、クレクレ君的なヤツだなあと我ながら苦笑してしまうのですが、思い起こしてみれば僕は子供の頃から、自己承認欲求が強いくせに面と向かってそれを要求するのが苦手な不器用なヤツで、それでいてあまり褒められた記憶がないので自己評価がとても低く、すぐいじける子供で、そのひん曲がった性格を矯正するのには大人になるまでかかったなあ…そのきっかけはやはり結果を出して褒められた経験が大人になってそれなりにあったからなのかもしれないなあ…とか、自分語りはそのへんにしておきますが、皆さん、自分の子供は、叱るべきタイミングには叱り、褒めるべきタイミングにはきちんと褒めるのが大事だと、僕の子供時代の経験と記憶からそう強くオススメしたい…んですが、そもそも僕は子供どころか結婚すらもしていないのでまあ話半分に聞いてやってください。ああ、もう限界。文章が途切れちゃったので今回はおしまい。記録、原稿用紙3枚。てなわけでまた次回。

文無しの散財は自傷に似ている、のかも。

いろんなものを売ったり買ったりしています。どうも僕です。

どうにも、買い物をしてしまう癖があります。とくにお金のない時ほど。
我慢できるときもあるし、そんな概念など初めからこの世に存在しないかのように、気がつけば買っているというときもあります。

つい買い物をしてしまうタイミングというのはなんとなくわかっていて、

それなりに必要なもので (人生において必要なものではない)、手に入れるには買う以外に方法がない

いつか用意しないといけないなと思っていたものが、お得に買える状況に「出会って」しまう

死ぬほどくたびれた時

だいたいその3パターンのような気がしています。

お金がないにもかかわらず、なんとかなるだろうと思ってつい買ってしまうその行為は、まさしく自殺行為に等しいのですが、なぜそうしてしまうのかについて考えてみると、それは多かれ少なかれ、「新しいもの、新しいことに触れたい、そちらに進みたい」という、意欲のあらわれなのではないかと思うのです。

一説に「死ぬほどでもない自傷行為は、みずからの存在証明のためである」という話があります。

これまで自傷に至ることのなかった僕にはその真偽はわかりませんが、生きていることの確認のための自傷と、みずからの意欲の発露としての無計画な散財というのは、通底するものがあるのかもしれないと、文無しの僕は思うわけであります。

どちらも褒められたことではないし、前提として、それらを正当化する話ではありません。

なので、今日はなにも買わなかったぞ。偉いだろう。

…自戒を込めて。おわり。

背中がかゆい話

こんばんは。僕です。前回が重い内容だったので、今回はどうでもよい話題にしようと思います。

いま、猛烈に背中がかゆいです。ちょうど、肩甲骨の内側の、体のかたい人だと手が届くか届かないかの、きわどいあたり。
電車に乗っているため、大胆に腕を伸ばしてエイヤッと掻いてやることができず、ガマンを強いられています。

思えば、体がかゆくなるとすれば、どこ? と問われれば、だいたい背中だったような気がして。

たぶん、頭がかゆいとか、腕がかゆいとか、股間がかゆいとか、そういうシチュエーションは多々あるはずで、それでも背中と思ってしまうのは、なんでだろうと考えると、それはきっと、背中がかゆい時は、いまみたいに掻きたくても掻けない困難なシチュエーションが多いぶん、印象にのこりやすいということなのではないのかなと、そう想像するわけであります。腕や頭のかゆみなど瞬殺であります。

緊張と弛緩。
苦痛と快楽。
拘束と解放。

その落差が大きい事象は、えてして印象にのこりやすい。それは「背中がかゆい」という、どうでもよいようなトピックでも当てはまる。

そう思うと、人間の思考というのは、なんとも現金なやつというか、わかりやすいものだなあと、ひとり、電車のなかでそう考えるわけであります。

ですので、きっと、毎日

「今日が人類最後の日だ」

と思って生きると、一日なにも起こらなかったことについても、大変にドラマチックに感じられ、感動の多い毎日になるのではと、そう思います。

ああ、今日がなにもない日でよかった。

どうでもいい話、おわり。

デリケートにスキして

どうも僕です。雨ですね。関東は。
まだまだnoteの作法を掴めずにいる僕ですが、前回の記事にFacebookでいいねしていただいたり、noteでスキしていただいたりで、いやはやありがとうございます。スキしてといえばクリィミーマミ。

今日はこの文章を、仕事と仕事の合間の、移動中の電車の中から書いています。

電車というのは不思議なもので、ただボンヤリと座っているだけで、いろいろと気づいたり、ムクムクと創造性が浮かぶものであります。でも大した作業ができるわけでもないので、降りる頃には雲散霧消しがち。

これはきっと、電車の中でできることの選択肢が少なく、その数すくない「できること」に、意識が集中するからなのでしょうね。そうなのではないでしょうか。
風呂やトイレでアイデアが浮かぶのもそう。そうだそうだきっとそういうことだ。

そんなわけで、今日は電車の中で起こった思考の流れを、つぶさに記録してみようという、実験のような、随筆のような雑文です。スキマ時間の有効活用。

余計なお世話、

という言葉があります。

普段ほとんど他人に感謝と謝罪とをしながら生きている僕は、他人に対してそんな感情を抱くことが実にすくないのですが(本当です、本当ですってば本当です)、割とひんぱんにそのように感じてしまう対象があります。

それは、携帯やパソコンの変換機能です。みんなも、そう思うこと、ないかな?

余計なところまで漢字にしてくれる、変換機能。こいつに頼ってかたっぱしからエイヤっと変換しまくってやると、さも「俺様ってばこんなむずかしい漢字も知っているんだぜ(ただし手では書けない)」みたいな、そんな空気が巻き起こり一点かき曇り雷鳴鳴り響き大山鳴動し鼠一匹、となること請け合いです。ならないけど。

たとえば、ありがとうございます、という言葉ひとつとっても、

有難う御座います

とか、お前は近代文学の登場人物か! と、思わずツッコんでしまいそうなテイストにしてくれやがります。

文筆の世界では、さほどむずかしくない漢字をあえてひらがなで書いて読みやすくすることを

「ひらく」

といいます。じゃあわざわざむずかしい漢字をつかうのを

「とじる」

というかというと、そんなことはありません。
いわないよね?

ひらくという用語は、やはりパソコンやワープロでテクストをやりとりするようになってからうまれたことばなのでしょうかね。それとも原稿用紙の時代から「ひらいて」いたのでしょうか。
それ以前から文筆にたずさわっている人に一度うかがいたいトピックであります。

こんなことを思いついたのはひとえにiPhone先生が、「つぶさに」を「具に」とかやってくれたからにほかなりません。

駆け込み乗車

まだ、電車に乗っています。

いま、となりに座っていた人がかけ降りて行きました。それを見て僕は、

ああ、駆け降り降車だなあ

と思ったのですが、よく考えたら、駆け込み乗車の、
「込み」と「乗車」って、意味がかぶっているよなあと、同時にふと思ったわけであります。

頭痛が痛い
俺のマイブーム

などと、重複表現はジョークとしてよく語られますが、この例は正しい表現として使われる稀有な例だなあと、ほんのり感心した次第であります。

#虹 について

今月はどうやら #虹 について語るとアクセスが稼げるらしいので #虹 について語りたいと思います。 #虹 って綺麗ですよねえ。 #虹 。ちょっと #虻 に似てますよね。 #虻 。 #虹をみたかい 。マイレボリューション。

以上

電車の中ではだいたいこんなことを考えています、編集長。あんまり重要なことはなかったね。スキマ時間の無効活用。

おわり。

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