なんとなく、

なんとなーく共感。

日日ノ日キ – 言葉にしないと伝わらない 言葉にすると伝わってしまう

共感ってーか、こういうのを読んでしまうと、
どんどんどんどん自分の中の思考が
飛躍していってしまい、結果的に下記のようなことを
考えてしまう。

「自分」とは。

「自分のため」とか「人のため」とかは
結局のところぐるぐるとまわるものであって、
「人のため」はその他に与える影響とか
自分に対する反応とかを鑑みると、
良くも悪くも究極的には「自分のため」たりうるし、
「自分のため」はやはり自分の決定した事項が
他に影響を与えることになり
良くも悪くも究極的には「人のため」たりうる。

そうすると、
「自分の存在理由」とは?とか、
「この先をどう生くべきか」とか、そんなことなんて、
考えること自体が無意味な気がして、
いっそのこと決定論とかラプラスの悪魔とかを
無責任に支持して、ある種の諦観と共に
流れるままに生きるのが
楽かつ幸福なのではないか?なんて
一瞬思ってしまうのだけれども、
決定された運命なんて現状では予測出来ないし、
社会の中で生きる一存在として、そんな諦観を持ち続けるのは
物凄いハードルが高く、貫き通す鉄の意思が必要で、
逆に困難なのではなかろうかなんて
終わらないループにはまってしまう訳です。

でも諦観は、何かを決断する上では
大きな後押しになるなあと、最近では思っています。

人は何かを選ぶ際に、
必ずその逆の何かを捨てなくてはならないから。
両得は、たいていの場合は不可能で、
決める勇気=捨てる勇気であり、
捨てる勇気≒諦観なのではないかと。

でも、それをどこか納得できないでいる自分が、
欲深く、未熟な存在であるなぁと、
いつも反省し、落胆するのです。

なーんてね。
最近こんな本を買っちゃったんで、
余計にそんなことばかり
考えてしまっているのですけれども。

みなさんはどう思います?

自分がものを考える上で、
いつも行き詰るポイントが上記なので、
他の人がどう考えているのか、
すっごい興味がある、というか、
自分の中の思索を深める上で
すごく参考にしたいと思っているのです。

おわり。

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