訃報

今日はライブでした。

先週から、僕もPCも仲良く、ずっと調子が良くなかったんだけど、なんとか回復させて、新宿御苑のカレー屋さんで演奏。

リハを終えて、少し長い本番までの間に、Twitterで長くフォローさせていただいており、一度ご飯を食べに行った知人の、訃報をFacebookで見ました。

突然すぎて、ちょっと何が起こったんだかわからず、とりあえずステージへ。
なんだかいつもと違う感じで、自分の指が遅れていく感じでビートが掴めないままに、なんとかステージを終えて、いろいろな人の投稿を見て、本人の亡くなる直前の投稿なども見て。

そこからはずっと、生きること、死ぬこと、みたいなことばかりを考える1日でした。

年末あたりから、いいこともたくさんある反面、どちらかというと、本当にしんどい局面とか、不運とか、報われないこととかが多くて、まあ大体において自分のせいなのだけれども、自分の未熟さとか、なんとかしないとなあとか、くじけそうになったりとか、そんなことばかり考えて、鬱屈して、コンディションを落として、他人に迷惑をかけて、それでまた自分に絶望して、みたいなことの繰り返しだったんだけれど、

今日、いろいろな人がその人のことを悼み、悲しんでいるのを見て、なんというか、社会とのつながりのなかで生きる人間の「生」というのは、自分ひとりのもののようで、そうでないんだなあということを感じました。

いくら自分自身が絶望していても、まず出来る限り長く生きるということを軸に考えないといけない。悲しむ人の数をすこしでもへらしていかないといけない。

それは、とても大事なことだけれども、同時に枷のようにもかんじる。
僕が死んだら、悲しむひとがいるなんて、いやだなあ。

僕たちは、かなしみの感情をもつだけの知性を備えた、動物で。

それサバンナでも同じこと言えんの?じゃないけれども、日々食うか食われるかみたいな戦いの中にいる野生動物には死の概念があるのだろうか、仲間の死をかなしむのだろうか、かなしまないのなら、幸福なのかもしれないなあとか。

極端な話、たとえば自殺をするとか、それだけの知性を備えてしまった人間という動物は、幸福なのかとか。

そーんな。

もやもやもやもや。

ああ、悲しい。

僕は、生きよう。
だからと言って、今現実に迫ってきているいろいろな問題については、どうしたらいいのか、わからず、逃れようもないのだけれども。どうしよう。どうしたら。でも、それでも。

ことさん、
天国で美味いものでも食べて。
そっちにいったら、そっちのおいしい店とか教えてください。

ご冥福をお祈りします。

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